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信金から都銀へトラバーユ

出張所の移動バスは特殊なバスだった為、当初より耐用年数は10年としていました。

なので昭和51年から昭和60年までで廃止され私は母店の長岡に配属されました。

以降2~3年毎に支店は移動しましたが、前の支店の顧客より取引の全く無い先の紹介を請けていたので、何とか既先の引き継ぎは極力減らして新規先の開拓を続けていました。

祇園支店に転勤の折は、洛西支店の紹介者を祇園まで呼び寄せ、紹介を請けました。

こうして入社してから20年が過ぎようとした頃、この毎日の営業を都銀で生かしてみたいといった野望を持つようになっていました。

都銀よりも信金に居る方がずっと仕事がしやすいことは良く理解してはいました。

しかし、例えば一般融資の場合、信金では店舗長権限は数千万円に留まり、仮に3億円を超えれば審議会に架けなければなりません。

一方都銀では店舗の規模にもよりますが、店舗長権限はほぼ10億円ほどあり、営業担当者にとっては非常に案件を通しやすく仕事がスムースに捗るのです。

妻の叔母が旧三和銀行出身であり、いろいろ話を聞いて給与体系も信金とは比べ物にならない程高い事が判りました。

それから叔母から教わった、UFJ銀行子会社の「みどり会」に中途採用応募をしました。

そののち3年半後、もう転職の事も忘れた頃「みどり会」より中途採用試験募集の案内が来ました。

銀行員

面接では、学生時代から信金も含めてずっと京都だったので、今後も京都での営業を考えていることだけは、はっきりと伝えました。

UFJ銀行でも、全国の中で京都と千葉県の一部が一番、営業がやり難い都市だと考えていたそうで

潰されてしまうのを覚悟のうえならと言われまし

そうしてマイカーの新車(軽自動車)を充てがわれ京都駅前支店に入行することになりました。

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企業開拓はまず受付嬢から

UFJでは本部BBO(ビジネスバンキングオフィス)所属の京都駅前支店内というわけで、京都市内の法人・個人の事業資金開拓事業部といった内容の部署で、これまでの信金での仕事とほぼ変わらず、京都市内何処へ行こうが自由といったものでした。

私はこれまで通り、先輩諸氏からの引き継ぎ先をほとんど貰わず、新規開拓に重点を置いて活動することができました。

新規開拓とは、どこの金融機関でも内容は同じで、まず 訪問予定の企業の過去の事故履歴を調査して問題なければ訪問します。

その企業の決算書(附属明細込み)を過去3カ年徴求することから始めます。

当然のことながら、初めて訪問して決算書の徴求はまず、無理です。
経理担当者に会うことすら、なかなか難しいでしょう。

銀行員向けハウツー本によく書いてある『まずは事業所の受付嬢から攻めていく』・・・

まぁこれが正当法でしょう。

もうひとつわたしには武器がありました。

信金時代に親しくなった優良な取引先が300件以上ストックされていました。

『まいど!お久しぶり』で帰りには決算書3期分を手にしていました。 

このことは恐らくUFJの上層部もキャッチしていたのかもしれませんが、自分にとってどうでもいいことでした。

HT端末(ハンディ・ターミナル)も無い銀行だった

信金と都銀では細かい専門用語も全く違っていました。
それは半年もすれば覚えてしまうことです。

しかし一番困ったことは金銭授受や書類授受の受取書(仮領収書)作成でした。

信金ではもう10年以上前からHT端末を使っていました。
TOSHIBAに始まりPANASONICを経て今はOMRONを使っていますが、UFJではいまだに手書きの受取書でした。

これは印紙の添付が必要で、また控えの回収に多くの時間を要しました。毎日東京から送られてくる伝票がダンボール一杯あり、見つけ出して回収伝票として検印を貰って綴じる無駄な時間に泣かされました。

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