HIPHIP

ようこそ、お越しいただきありがとうございます私ヒップと申します。またの名を『ドスケビッチ・オナゴスキー』と申します 😯 

何事にもスケベ心が無かったら世の中に関心が持てません!そして男は女が、女は男が好きであれば、おのずと世界が見えてきます。これはアダムとイブの時代、万葉の時代より人類普遍の真理です・・・

はじめまして! 最初に私の愛称『HIP』はお尻じゃなく、ヒップホップのhip = 最先端の意味です。

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22才から今日までずっと金融機関に勤務しており先日65才で定年になりやっと自由の身となりました。

こういうと随分 固い人間だと思われがちですが、私を知っている者は誰もそうは思いません。

きわめてやりたい放題の事をやってきました。

 

そのほとんどが京都を舞台に バブル期の前から経験し、仕事柄 京都の法曹・医師会関係・マスコミ・芸能人・芸術家・宗教家など様々な人達との人間関係を持つようになりました。

 

また、実録もの小説が好きで今でもよく読みますが、確かに史実はその通りなのですが、当の本人やその家族の機微に触れた日常の生活まで知りえた事は、自分の人生に大いに役立ったと考えています。

歯車

ビートルズ武道館コンサート・『しあんくれーる』・ジョン・コルトレーン・村八分・フラワートラベリンバンド

ビートルズ武道館コンサート
ビートルズ武道館コンサート

しあんくれーる
しあんくれーる

ジョン・コルトレーン
ジョン・コルトレーン

村八分
村八分

フラワートラベリンバンド
フラワートラベリンバンド

 

一方 趣味は音楽全般で中学のブラスバンドでテナーサックスを3年間演っていた事と、中学2年の時ビートルズの武道館コンサートに連れて行ってもらった事が大きく影響したようです。

 

クラブでの課題曲や行進曲はそこそこにして、故松本英彦のジャズサックスの教則本を買込み真剣に取り組んだ時期がありました。

 

中学3年の頃には近所のレストランの屋上ビアガーデンでエレキバンドの演奏をしていました。1ステージ500円のアルバイトでした。

 

高校時代から大学時代前半にかけては学生運動真っ只中にあって、幼友達で同級生だった友人が高校卒業の日、校舎のガラスを割り、屋上のコンクリートを砕き、投石用に準備し、校門にバリケードを築いてシュプレヒコールを挙げていた時期、私はといえば京都のジャズ喫茶『しあんくれーる』や『ソワレ『蝶類図鑑』あたりでひたすらコルトレーンを聴いているか、京大講堂や円山野外で『村八分』や『フラワートラベリンバンド』などのロックコンサートに入り浸っておりました。

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京都信用金庫時代

昭和50年に京都信用金庫に入行してからも配属される支店ごとにバンドを組んで銀行の新年会や行員の結婚式などで演奏を続けていました。

 

今思うにこうやって好き放題できたのも、銀行内に留まらず40数年間 営業でほとんど外へ出っぱなしだった事だと思います。 店頭で来店される顧客との接点だけではこうはならなかったでしょう。

 

また私自身のこれまでの営業スタイルとして常に持っていた事は、例えば京都の祇園界隈を例にするならば、商人が花街に出店している一見 豪華なラウンジには、もともと余り関心がなく、彼が商売を終えて帰宅する薄暗いすえた匂いのするマンションでの生活や彼の将来の夢や、商人同志のお付き合い仲間に興味をもっていました。

また自用の店舗を含めた大規模なテナントビルを所有するオーナーも中にはいましたが、2階にあるその店には一度も行った事はなく、最上階の自宅へは何度も訪問し、当時 高校生の娘さんが水泳選手としてインターハイに出場するのをその母親と一緒に応援していました。
もっともこの自用の店は一部上場企業の接待用クラブとして契約されており、わざわざ私が行って盛況振りを確認する必要などなかったのです。

 

また東山区では、私が取引先の尼寺の娘さんと同じ女子高の本願寺のお嬢様を銀行の潮干狩りツアーに2年続けて招待したことを思い出します。
尼寺は西国めぐりに名前を連ねる有名な寺社であり、当然結婚の習慣は無く、彼女も代々養女として迎え入れられているものですが、彼女たちの日々の生活を聴くなかで、古い京都の仏教文化の伝統やしきたりを垣間見ることができました。 これは銀行の営業活動の中で4~5回、強制的に参加させられた建仁寺での座禅体験や説法会よりもずっとリアルで為になったと思います。

 

三菱東京UFJ銀行時代

40歳代の後半に信用金庫を退職し、UFJ銀行の本部(ビジネス・バンキング・オフィス)職員として、同じ京都の地で、同じ営業スタイルで、活動できることになりました。
これは私が長年望んでいた都銀の営業形態全てを知りたいとの希望が叶った出来事でした。
しかし実情は巷で言われていた通り苦しいものでした。
京都は昔から信金と地元との繋がりが密接で、都市銀行が入り込む余地が無く、都銀の本店を京都に置くところは一行もないと言われていたのが、実感として理解できました。

 

例えば、ニュービジネス企業開拓の為の『異業種交流』懇親会戦術も始めたのが、信金と比較して15年ほど遅れており、尚且つ交流の場所が東京と遠くこの戦術が拡大することは無く、たちまち中止となりました。
地元に根付いた信金の利には勝てなかったのですね

活動の中心となる新規顧客開拓は信金が相手をしなくなった先がほとんどでしたが、私は信金時代に長年親しくしていた顧客を中心に何とか生き延びてきました。

もともと楽観的な性格だったことが、好きな営業を続けられたのだと思います。

都銀は信金と比較して当然ながら全てのスケールが大きかった

1990年3月 総量規制 (※) が発令された途端にバブルが弾け全く想像を絶する社会現象を経験することになりました。
勿論 これまでのバブル期についても初めての経験だったのですが、好景気については、さほど気にはならなかったのでしょう。
バブルが弾け不良債権が突然膨れ上がり、信金に務めていた私は、以降2年程は「預金は集めなくていいから、回収だけやってくれ」と言われた時期もありましたが、時期が時期だけに貸金回収など出来るはずもなく、結局全ての不良債権を本部に移管して(下駄を預けて)支店では何もなかったかのごとく、これまでと変わらない通常業務に戻っていったのでした。

それから10数年経って都銀に務め最初に驚いたのはバブル期の不良債権の後始末をまだ続けていたことでした。
回収専門の子会社もありましたが、殆どは支店内で解決方法を見つけ出そうとしていました。
貸出債権のバルクセール競売・債権の証券化等は時期を選んで一斉に何度も実施したり、リスケ(リスケジュール=毎月返済額を減額し、最終回にしわ寄せし、最終回までに担保物件売却させ、損切りを最小限に抑える)事は現在でも続けています。
これは平成21年に発令された金融円滑化法案に伴うリスケ以前から行われていたものです。

あくまでも自分たちの巻いた種は最後まで自分たちで責任を持って刈り取るといったところでしょうか。
本音はそんなものではなく、償却損を出して貸倒れ償却をするには不良債権の額が大き過ぎたのです。
それは信金と比較するに2桁以上の違いがあったのでしょう。


※ 総量規制は、1990年3月に当時の大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導です
大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」のうちの不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることをいいます。
行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させることを目的とする政策でありましたが、予想をはるかに超えた急激な景気後退の打撃(いわゆるバブル崩壊)を日本経済にもたらすことになりました。
この通達によって、金融機関は融資証明書を発行しておきながら、融資を行わない、あるいは建設工事途中で融資を打ち切る等、現在に繋がる貸し渋り・貸し剥しを、全国規模で政策的に意図をもって大規模に実施しました。
この結果資産デフレを招き、その後の日本経済の長期低迷をもたらす大きな原因となりました。


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