京都信用金庫に就職  『職員会議』とは

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私が最初、京都の信用金庫に勤めたのは1975年でした。

 

当初就職は信用金庫でなく銀行を目指しておりましたが、大学の就職課より「京都の金融機関を志望するなら銀行より信用金庫の方が知名度が高く仕事のやり甲斐がある」と教わり就職を決めました。 ・・・・・ 後に都銀の営業も経験し就職課の助言が正しかった事を実感しました。

 

ところがこの信用金庫がかなり変わっていました。
労働組合の代わりに「職員会議」というものがあり、2か月に1回平均で支店より3~4名が交代で京都の祇園安井にある高級料亭『河庄双園』に夕刻出向き、2時間たっぷり書記局長である安川良子という女性の金切り声にも似た洗脳スピーチが始まり最後に山段芳春という得体の知れないおやじ総括学習会?が一旦終了し、軽く乾杯し高級懐石料理をそそくさと食べお開きとなるものでした。

 

その学習会の内容は当信用金庫が過去に仕手株事件の不正融資が明るみとなり、旧大蔵省より指導として天下りの理事長が着任したが、私が持つ政治力でわずか半年でこれまで我々と一緒に仕事をしてきた者の中から、新しい理事長に据替えた。(これは実際に実行されました)

 

また職員一人一人の生活や身の保全も私が保証している。なので労働組合は今後も必要なく、私についてくれば良い。といったような内容でした。
(『職員・家族の身の保全・・・』は現在も社是・社訓に残されています)

 

当初 入行したばかりの私は、うちの職員でもなく見たこともない男女が京都の料亭に呼びつけて金庫の将来につき強引に教育するのは大変不思議と思ったのも当然です。

 

しかしのちに、これが彼 山段にとってどれだけ重要な会議であるか身に染みて解るようになったのです。

 

この山段芳春という人物は「京都のフィクサー」と呼ばれ、損害保険代理店(京都信用金庫の同族会社)「キョートファンド」の会長だったのです。

 

そして数年後に、私がこの『職員会議』の書記として以降10数年担当することになるのです。

 

山段芳春という人物とは

山段芳春
山段芳春

山段芳春は、京都府職員として米軍の訓練を受け、連合国軍軍司令部で治安調査を担当。

その後、全国でも有数の規模を誇る京都信用金庫で労組にあたる「職員会議」の常任顧問を務め、官公庁や警察、検察OBらを集めた「京都自治経済協議会」を主宰。 イトマン事件の許永中被告とは極めて親しい間柄だったが、小澤一郎、周防郁雄との確執で対立。

 

会津小鉄会・高山登久太郎と親しく登久太郎の長男が経営していた会社が新石垣島空港の用地買収に際して多大な融資を行っていたのが山段芳春率いたキョートファイナンス(京都信用金庫子会社)。長谷川公彦(島田紳助)の沖縄用地買収についても山段が深く関与していました。

 

京都府福知山市出身。戦後すぐ京都府警察の警察官となり西陣警察署に配属、そこで経済事犯を担当していたことを切っ掛けに政財界や闇社会とのつながりを得る。警察を退職後、京都信用金庫に入り、更に子会社のキョート・ファンド社長に就任
ここを根城として政財界や官界・労働組合・警察・検察・更には闇社会に広いネットワークを築き上げた人物。 政界では保革双方にパイプを持ち歴代京都市長の誕生にも多大の影響を及ぼし、労働組合や部落解放同盟の幹部にも知己が存在した。

 

経済界では京都信用金庫だけでなくこうと自治経済協議会を通じて京都銀行など地場の有力企業にも影響力を行使し、イトマン事件でも名前が挙がっている。

京都新聞、近畿放送等のマスコミもその影響下に置き、両社社長を兼任していた白石英司の急死を発端とする内紛では自らその収拾に乗り出している

この頃になると許永中からは「おやじ、師匠」と呼ばれるまでに慕われるようになっています。

朝日新聞2ページ分に掲載されたイトマン事件の裁判記録には許永中の名前と合せ山段芳春の名前が良く出てきてます。


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