釜ヶ崎上陸
革靴は襲われる恐れがあると聞いていたので運動靴で出かけました。
少し歩きたかったので梅田から御堂筋線で恵美須町まで行きました。通天閣を横切りジャンジャン横丁を南下して歩きます。真っ昼間なのに途中段々と商店街が暗くなってきます。
焼肉屋、中華飯店、スマートボール場、碁会所、等がひしめき合って出店していましたが、異様な匂いと雰囲気で食欲は全くありません。
関西本線のガードをくぐり抜けると街の雰囲気がガラッと変わりました。立ち並ぶビルはすべてホテルのようでした。
大きな屋台ではバナナの叩き売りとベルトを売っていました。
ここあいりん地区は、東京の山谷とともにドヤ街(寄せ場)として有名な地域で毎日のように日雇い労務者の暴動が起こる場所です。
日雇い労働者の労働条件は決して良くはなく、手配師とそれらを束ねる暴力団などにピンハネされるなど、鬱積した感情が高まっており、暴動発生の温床となっていたのです。
最初の暴動は1961年に発生しています。その頃の暴動は、ある意味「自然発生的」な暴動事件であったといえます。
1970年代に入ると、 日本の新左翼が窮民革命論を掲げてドヤ街に乗り込み、日雇い労働者を煽動するようになった。第9次暴動から第21次暴動までの13件の暴動は70年代前半に集中している。その頃になると扇動者による計画的な暴動になってきていました。
私が行ったのはちょうどその頃です。交番署が焼けただれて暴動の跡が生々しい現場もありました。
労働者会館に住民票を置いて、年金を受給している労務者も多かった時期です。
そして立ち並ぶビルはすべて1泊¥500~¥700の木賃宿でした。私はそこで1週間ほど寝泊まりすることにしました。
さらに南に飛田本通り商店街が続いています。さきほどのジャンジャン横丁の暗い商店街よりもさらに暗い商店街です。
社会の底辺を逞しく生きる労働者の暮らしを支える西成の商店街なのです。
串かつ戦争勃発ですっかり観光化した新世界のジャンジャン横丁と違い、こちらは西成の労働者と地元民しか見かけません。
確かに汚いの一言に尽きるが、別に深夜早朝でなければ治安上問題もなく過剰に恐れるには足りないと思います。
普通の家族も住んでいるし、幼稚園や学校も普通にあります。
そして破格の作業服屋、軍手屋、日用雑貨の店が続き、スマートボール場やパチンコ店(タイガーホールって名前だったと思います)がありますが、商店街の辻々には昼間からオカマさんが立っています。
このオカマさんはちょっと見にも化粧の下に髭面が青々と見え、いわゆる「西成のオカマ」と呼ばれる、大阪でも最低ランクのオカマさん達だったのです。
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