わろてんか

”わろてんか” ひよっこロスよりの脱却なるか!

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2017年度後半NHK朝ドラ ”わろてんか” が10月2日にいよいよスタート。

女優の葵わかな(19)が、大阪を舞台に周りに笑いをふりまくヒロイン・藤岡てんを演じる。
ドラマのテーマは、“笑い”。吉本興業の創業者で女興行師・吉本せいがモデルです。

ひよっこロスに落ち込んでいる私自身、何とか脱出できるか楽しみにしています。

京都の老舗薬問屋「藤岡屋」の長女で、いつも周りを朗らかにしながら自分もよく笑う、いわゆる笑い上戸(=ゲラ)な女の子。
ところがある日、父から笑い禁止を命じられ窮屈な日々を過ごすことに…。そんな時旅芸人の藤吉と出会って笑いの力を再認識、てんは「笑って生きる」ことこそが人生の希望だと確信します。
なので、てんのモットーは笑顔を絶やさず、人にやさしく、そして商売に厳しく。日本中に笑いを広める夢を叶えるべく懸命に働きます。

主なキャストのほんの一部

ヒロイン藤岡てん演じる葵わかな

葵わかな
『葵わかなさんについては、コチラもご参照ください』

1998年6月30日生の20歳
神奈川県出身
身長158cm
血液型はA型
趣味は、宝塚歌劇・猫を愛でること
特技は歌
所属は、スターダストプロモーション

2009年小学5年の時、オーディションの提出書類に添付する
写真を撮りに原宿に行った時、スカウトされる。
その1週間後ファミリーマート「霧島の天然水」のCMのオーディションに合格!
同じ2009年に日テレ「サムライ・ハイスクール」で杏さんの幼少期を演じる。
2012年12月に日テレバラエティ番組『ようこそ!東池袋ヒマワリ荘』の出演者でアイドルユニット『乙女新党』結成
2013年2月CDデビュー・・・・・と、トントン拍子に芸能界を駆け上がるラッキーガール。

藤岡てんの幼少期を演じる新井美羽ちゃん(11歳)

大河ドラマ『女城主直虎』の直虎の幼少期も美羽ちゃんでしたね
新井美羽

ヒロインてんの夫 北村藤吉演じる松阪桃李

松阪桃李
大阪船場の老舗米問屋「北村屋」の長男。家業を継ぐのがイヤで旅芸人一座にまぎれ込んでいた時、てんと出会い恋に落ちる。笑いが大好きだが芸の才能はなく、てんと結婚するため船場に戻って家を継ごうと決心する。心優しく人を信用し過ぎて失敗するのが玉にキズだが、てんを「一生笑わせてやる」という誓いを忘れず、その実現のために突っ走るロマンチストでもある。

てんの従兄 武井風太演じる濱田岳

濱田岳
「藤岡屋」の親戚の子で使用人として働いている。幼い頃からてんと一緒に育てられ、仲の良い兄のような存在だが、てんからは常に弟扱いを受けている。じつはてんのことを密かに好いており、てんを守るためなら命もかける熱いの青年なのだ。てんが藤吉と一緒になって以降も、てんのために身を粉にして働くことをいとわず、終生の忠誠を誓う一本気さが可愛い男。

青年実業家 伊能栞(いのう しおり)演じる高橋一生

高橋一生
東京生まれの東京育ち。大阪の伊能薬品社長の息子だが正妻の子でないため、神戸で貿易会社を興して実家とは距離を取っている。てんの結婚相手になるはずだったが、てんが藤吉を好きだと知って、てんを後押ししてやる度量の広い男。エンターテインメントに関心があり、それが縁で藤吉やてんと親交を深め、日本に華やかなショービジネスを根付かせていくことになる。

てんの父 藤岡儀兵衛演じる遠藤憲一

遠藤憲一
京都の老舗薬問屋「藤岡屋」当主。番頭の時の仕事ぶりをハツに見込まれ入り婿になった。一言で言えば、堅物で仏頂面のまったく面白味のない男だが、本当は家族を想う気持ちの深い慈悲の人でもある。儀兵衛が笑い上戸のてんに“笑い禁止”を厳命したことからこの物語が始まっており、じつは儀兵衛こそが真の笑いの神…なのかもしれない。

てんの母 藤岡しず演じる鈴木保奈美

鈴木保奈美
おっとりとした天然キャラの奥様だが、料理が得意で「藤岡屋」の台所を取り仕切っている。入り婿として重圧に耐える夫のことを誰よりも理解して、子供たちと父親の仲を取り持つ聡明さを兼ね備えた女性でもある。てんの笑い上戸はこの母がいればこそであり、てんの笑顔と優しさはこの母をなくしては語れない。

てんの祖母 藤岡ハツ演じる竹下景子

竹下景子
老舗「藤岡屋」の伝統を誰よりも重んじる厳しい人で当主の儀兵衛も恐れる大奥様である。だが、普段は茶目っ気たっぷりの女性で、てんの見合い相手・伊能のことが気に入った時も、もし自分があと40歳若かったら…と残念がる乙女な心を持ち合わせるキュートな女性でもある。

てんの兄 藤岡新一演じる千葉雄大

千葉雄大
薬学科の学生。小さい頃から病弱で、どんな病気でも直せる薬を開発したいと思い、将来は研究のためドイツへの留学を夢見ている。厳しい父に反抗する時もあるが、薬問屋の仕事に誇りを持ち実直に働く父を尊敬もしている。てんにとっては、とても優しい兄で笑いに目を向けさせてくれた人生の先輩でもある。

てんの妹 藤岡りん演じる堀田真由

堀田真由
笑顔を絶やさない姉てんのことが大好きな妹。いつも問題を起こすてんとは違って、母親似で控えめなりんは父から怒られることもない。だが、てんが駆け落ちを覚悟した時、りんはそれまで見せなかった大胆な行動に出て周囲を驚かせる。じつは母のしずと同様に、怒らせると怖いタイプの女性?

てん付きの女中 トキ演じる徳永えり

徳永えり
「藤岡屋」の従業員。てんの身の回りを世話する付き女中である。てんにとっては姉のような存在で、とくに恋愛に関してはいろいろと意見をくれる大切な相談相手なのだが、じつはトキ自身は恋などしたことがなく、すべては恋愛小説に書いてあることの受け売り。風太のことを憎からず思っているが、恋は成就するか。

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吉本興業の創業者 吉本せいとは

「大阪を笑いの都に」と夢を抱き、寄席の経営者となって“笑い”を一大ビジネスに成長させた、せいの人生とはどのようなものだったのでしょうか?

吉本せい

せいの父は兵庫県明石市出身で、大阪に出て米穀商を営む林豊次郎。
その三女として、1889(明治22)年12月5日に生まれている。
戸籍に出生地がないため、生まれた場所が明石市か大阪市かはっきりしない。
死亡した者も含めて12人兄弟で、99(同32)年生まれの三男・正之助と、1907(同40)年生まれの四男・勝(のちに弘高)は、せいの片腕として吉本興業を支えた。

義務教育を終えると、大阪の商業の中心地・船場の実業家のところへ奉公に出される。ここは「奉公人の食が進むと損をする」として食事中に悪臭を漂わせるなど、徹底して倹約に努める家風だった。せいは奉公先で厳しく鍛えられ、「無駄な金は使わない」という大阪商人のマインドを叩き込まれた。

1910(明治43)年に上町で荒物問屋を営む吉本吉兵衛(もとは吉次郎、通称・泰三)と結婚する。嫁ぎ先の商売はうまくいっておらず、せいが債権者からの取り立てに対応することも。
姑は厳しく、手に余るほどの家事を任せた上に嫌みを言い続けた。
嫁いびりは当時、珍しくなかっただろうが、妻の悩みは、夫が家業と家族に無関心だったこと。
吉兵衛は当時流行した剣舞にのめり込み、芸を披露したくて地方巡業にまで出たらしい道楽者の夫だった。

荒物問屋はどんどん傾いたため、せいのアイデアか、夫の思いつきかは分からないが、天満天神裏にあった寄席「第二文藝館」の経営権を買い取り、芸人を集めて興行を始めた。のちに吉本興業は多くの寄席を買収し、「花月」と名付けてフランチャイズ化していく。その第一歩は、吉兵衛の道楽を逆手に取った商売替えだった。

「第二文藝館のおばはん、なかなか気ィきくなァ」

せいの本質は、このほめ言葉に尽きる。
芸人が入院すると親身に看病し、暑い日には寄席で冷たい飲み物を売った。芸人の心を掌握して、客の喜ぶことを次々と実行する気働きが、商いを大きくしていった。
当時、絶大な人気を得ていた落語家・桂春団治を引き抜き、島根県の民謡「安来節」を取り入れ、「万歳」と言われた演芸を「漫才」に変えて「エンタツ・アチャコ」という人気コンビを育てた。

せいは気が利くだけでなく、時代の先を読む目もあり、大衆に受ける“笑い”を生み出し続けた。1924(大正13)年には夫を亡くしたが、そのころには弟2人の手を借りて成功を収めていた。38(昭和13)年には新世界の一角に建つ通天閣のオーナーになる。慈善事業にも積極的に携わった。

一方、成功の頂点を極める数年前から、困難に見舞われ始めていた。
大阪府議会議長を務めた吉本興業顧問格の辻阪信次郎が1935(昭和10)年に贈収賄・汚職脱税事件で逮捕され、吉本興業は窮地に立たされた。
辻阪が獄中で自殺したため、せいはわずかな罪で起訴されたにとどまったが、精神的なダメージは大きかった。
その後も芸人の引き抜きで消耗し、戦禍に見舞われ、47(同22)年には「後継者に」と期待していた次男が24歳で他界してしまう。
“笑い”で富を得たものの、笑えない時期は長かったのかもしれない。

「てん」と「せい」を比較すると、「苦労の末に『笑いの総合商社』の礎を築いた女性経営者」というサクセス・ストーリーは重なるが、境遇は異なる部分もあります。
てんの生まれは京都の薬問屋であり、夫の芸にかける意気込みは吉次郎よりもかなり高いように感じます。

キャラクターの違いもあります。
「朝の顔」であるてんは「みんなを笑顔に、幸せに」と願って、はつらつとふるまっている。一方、せいは「冷たい飲み物が売れるように」と塩味の濃いするめやおかきを売るなど、抜け目のなさで周囲をくすっと笑わせる「大阪のおばはん」なのです。

吉本興業と山口組 「100年の関係」

明治40年頃、山口組初代組長の山口春吉は、神戸の港に沖仲士としてやってきた。
沖仲士とは船舶の荷揚げ荷下ろしを行う労働者のことです。
春吉は、持ち前の頑強な肉体と寡黙な人柄で人望を集め、神戸にやってきて数年後、沖仲士仲間を集めた労働者組織のリーダーとなった。
これが後の山口組へと発展していくことになります。

一方、吉本興業の出発は明治45年。吉本吉兵衛・せい夫妻の寄席経営に始まる。
無名の落語家や流派に属さない漫才師を一手に引き受け、さまざまな演目を披露することから人気を集め、次々と点在する寄席を買収。
起業から10年余りで、上方演芸界を掌握するほどに成長しました。

神戸山口組と吉本興業の接点は、お互いにそれぞれの地域で頭角を現して来たころです。
今からおよそ100年前に当たる大正初期、港湾労働者を集めて山口組を組織した春吉は、対立していた労働者組織の瓦解(がかい)や三菱商船などとの大口契約という幸運に恵まれ、一気に組織の規模を大きくした。…
ついに神戸港の顔役にまでなった春吉は、日々過酷な労働を続ける労働者をねぎらうため、浪曲や漫才といった寄席を開くことを決めた。その依頼先が同じ関西圏で勢力を伸ばしつつある吉本興業であったのは言うまでもない。大正14年、春吉の長男・登が山口組2代目を襲名すると、さらに吉本と山口組の関係は密接になる。
港湾ビジネスを先代に任せた登は、浪曲興行に本腰を入れ、興行主の吉本から用心棒や地ならしを請け負う。
このころ始まったラジオ放送の普及とともに、浪曲や漫才は全国的なブームとなり、両組織の全国進出の足場を作ったと言える。

さらに昭和になると両者の関係はより密接なものとなる。
東京進出を図る吉本興業は、当時浅草で人気のあった浪曲師・広沢虎造を吉本の専属にしたいと2代目登に相談した。
これを快諾した登は、広沢のマネジメントを手がける浪花家金蔵と話をつけ、一定の制約の元に、広沢が吉本の専属となることを取り決めた。
しかしその数年後、広沢は無断で下関の籠寅組(現在の合田一家)の制作する映画に出演することを決めてしまう。
これに激怒した吉本側は、登に籠寅組との調停を依頼。
登は、広沢の映画出演を白紙に戻させることに成功したものの、その後の話し合いの際、籠寅組に襲われ重傷を負ってしまう。
昭和17年、登はこのときの傷が元で永眠する。

2代目の死後、戦中戦後の混乱を極める時代、山口組は組長が不在だった。
ようやく3代目に田岡一雄が襲名したのは昭和21年。

実業家としても名高い田岡は、先代、2代目の培ってきた芸能関係者との関わりをより深くし、昭和33年、神戸芸能社を設立。
美空ひばりなどといった昭和のスターたちの興行権を一手に握る芸能プロモーターとして活躍した。
だが、やがて時代は興行からテレビの時代へ。
有名芸能人たちのメインステージがお茶の間のブラウン管に移ると、興行先でのチケットの分配や地ならし、用心棒といった仕事を請け負っていたヤクザ組織と芸能事務所の関係は希薄になっていく。

テレビやラジオのない時代、人々の大きな娯楽であった興行寄席。あらゆる地方に出向いて芸を披露する彼らにとって、その先での安全や安心を約束してくれる組織はなくてはならない存在だったといえる。
しかし現代社会において、ライブなどといった興行を安心して行うのにヤクザの力は必要ない。
芸能関係者がヤクザと付き合うのにメリットはないと言えるだろう。
だが、そもそも芸人やタレントにも、どこか”ヤクザな雰囲気”がある。
それは一般社会では生きていけない類の人々がまとうものと言える。

島田紳助の引退で、吉本側はヤクザ組織との関係を真っ白と示したつもりだろうが、いくら組織同士の付き合いが皆無とはいえ、似たもの同士による個人的な交際は、今後もなくならないでしょう。

関連記事:4.京都の黒幕の盛衰をご参照

『わろてんか』の記事からかなり話題がそれてしまい、申し訳ありませんでした。

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