Sponsored Link


アレサ・フランクリン、ミシガン州デトロイトにある自宅で亡くなる

『リスペクト』より引用(本人の大反対にあいながらも家族や関係者の後押しを得て、彼女の真実をまとめあげたのが本書)

アレサフランクリン

2018.08.16 アメリカ音楽界の「レジェンド」である黒人女性歌手、アレサ・フランクリン(76歳)が、ミシガン州デトロイトにある自宅で亡くなりました。膵臓がんを患い、闘病生活を送っていたということでした。

「ソウルの女王」と呼ばれ、アメリカだけではなく、世界中の歌手に大きな影響を与えてきたアレサ。
私生活の方でも、かなり「激動の人生」を過ごしていたようです。

アレサ・フランクリンの子供は息子が4人で父親も4人?

アメリカの音楽界で最高の栄誉と言われる「グラミー賞」をノミネートされること44回うち20回受賞。
2008年には、アメリカの音楽雑誌「ローリングストーン」が選んだ、「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で「1位」に選ばれています。

アレサは、1942年3月25日に、アメリカ・テネシー州の「メンフィス」で生まれ、幼少期から、「父親」が牧師を務める教会で、「ゴスペル」を歌っていました。
そして「1961年」に「歌手デビュー」を飾ると、その圧倒的な歌唱力で、一躍「ソウルの女王」としての地位を確立させています。

また、その「私生活」もかなり「波乱」に満ちており、
最初の「出産(長男)」をした時、なんとアレサは、まだ12歳
更にその2年後 14歳の時に「別の男性」との間に出来た「第2子(次男)」を出産しています。
その後、「シングルマザー」として2人子供を育てていたアレサさんですが、1960年代に生活拠点を「ニューヨーク」に移すと、自分の「祖母」に子供たちを預けています。
生涯で結婚は「2回」。
子供は、「全て別の男性」との間に出来た「4人」の「息子」がいます。

アレサは幼少期から裕福な家庭で育つ

小さい頃から、父親の教会で「ゴスペル」を歌っていたアレサ。
その父親の名前は「レヴァント・C・L・フランクリン」と言い、「説教者」として有名な教会の牧師でした。
母親の「バーバラ・シガーズ・フランクリン」は、優れた「ゴスペルシンガー」。
しかし両親は、アレサがまだ幼かった頃から「別居」
アレサは「父親」の元で育てられています。

時代的に、まだ「人種差別」が激しい頃でしたが、アレサら「兄弟姉妹」たちは、全員が「大学への進学」を当たり前のことと捉えるほど、とても「裕福」で、「先進的」な考えを持っていました。

父親のレヴァントの持つ「カリスマ性」に惹かれ集まった多くの信者たちからは、「特別な扱い」をされ、子供の頃のアレサは「お姫様」のような扱いを受けていたのでした。

母親は常識ある素晴らしい女性だった

父のレヴァント牧師は16歳の時に説教者になり、黒人教会を回る巡回説教者として活動していました。 南部メンフィスのニュー・セーラム・バプテスト教会に定着した後、『より多くの聴衆に自分の声を届ける為、より大きな教会を探して』 アレサ誕生の2年後 (’44年: 末っ子のキャロリン誕生後) 北部のニューヨーク州バッファローに一家で移住し、2年後(’46年) に デトロイトに移り、ニュー・ベセル・バプテスト教会を建てて主任牧師として活動しました。
ニュー・ベセル教会における務めの傍ら、日曜日にはラジオを通じて説教の放送も行い、’40年代後半から’50年代にかけて フランクリン牧師の名声は高まり、全米各地で説教をおこなうようにもなりました。レヴァント牧師の声は「100万ドルの声」と評され、 初めてレコードに説教を録音した牧師 としても有名です。また、素晴らしい歌声も説教と同じくらいによく知られていました。
フランクリン師は牧師としての仕事に加え、’50年代から’60年代にかけては公民権運動に関わり、デトロイトにおける全米自動車労働組合 (UAW)の黒人労働者に対する差別を撤廃させるために尽力しました。あのキング牧師とともに。
一方、母親のバーバラはマヘリア・ジャクソンが『全米で最も優れたゴスペル歌手のひとり』と称賛するほど 優れたシンガーでした。結婚後のバーバラは妻や母としての役割を優先させていましたが、教会における音楽行事には積極的に 参加していました。アレサ自身の才能は両親譲りであったことが良くわかります。

母親は家族を捨てて家出したのではない
アレサが6歳の時、バーバラは家を出て行き、ニューヨーク州バッファローで暮らしました。
『家族を捨てた母親』 というイメージがあるようですが、実際は違うのです。

バーバラが夫のレヴァント牧師と別居に至ったのは、むしろ夫の不貞行為が原因だったのです。’40年に、メンフィスの信徒で当時13歳の少女に 子供をを生ませるという事件が起きました。バーバラとしては我慢を重ねた末の決断だったと思いますが、離婚はしませんでした。
バーバラは子どもたちと会うために度々デトロイトに戻り、子どもたちも夏休みにはバッファローを訪れ、母親の家に 泊まっていました。バーバラは、’52年にバッファローで心臓発作により、34歳で亡くなっています。

当時、アレサの子供は、「実は父親との間に出来た子なんじゃ?」という「噂」も出回っていたくらいでした。

Sponsored Link


父の交友関係の中で更に才能が磨かれた

父レヴァント牧師は’50年代にはアレサを連れて講演と音楽の旅に出かけていましたが、その中で多くのゴスペル・シンガーと 交流を育みました。マヘリア・ジャンクソンやクララ・ワード、ジェイムス・クリーヴランドなどがフランクリン家を訪れ、 歌を歌う環境で育ったため、アレサは才能あふれる歌手の歌声をお手本にして育ったわけです。
音楽に関して、レヴァント牧師はそれほど厳格ではなく、アレサはブルース・R&B・ゴスペルを聴いて育ちました。

10歳の時に父の教会で歌ったのが最初で、アレサは14歳で初めてレコーディングをしました。父のレヴァントは娘の音楽への情熱を応援し、 マネージャーも務めていました。(アレサが結婚するまでマネージャーを継続)

アレサの57年間の歌手生活は平坦ではなかった

アレサが18歳で世俗音楽に転向する際、いくつかのレーベルで争奪戦が起きました。その一つにモータウンも入っていましたが、 アレサのマネージャーも務めていた父は『モータウンではアレサ, アーマ(姉)の才能を広く届けるにはローカルすぎる』と 断っていました。

アレサは元々の才能も確かですが、トレーニングによって才能を磨いています。18歳の時に高校を中退するとニューヨークに行き、 本格的なヴォーカル・トレーニングを受けています。この頃アレサは世俗音楽に興味を持ち出しますが、父は寛容で、 デモを録音する時にも付き添っていく程だったといいます。

ジャズ~ポピュラー路線で、ゴスペル唱法は万人受け (特に白人) しないので 控えめ (むしろ隠す?) にする方針でした。アレサも’64年にダイナ・ワシントンへのトリビュート盤を発表するなど、ジャズ路線を 追求していました。
しかしこれは当初’64年コロンビアでは不発に終わり、2年後のアトランティック移籍まで待たなければならなかったのです。

私自身もアレサのジャズが好きで一時期、彼女のジャズばかりを集めていた時期がありました。

ソウル路線でブレイク

アトランティックの副社長ジェリー・ウェクスラーはアレサの14歳の時のレコード『Songs Of Faith』でのゴスペルが気になっていて、 アレサがコロンビアから契約を打ち切られたと聞き、’66年10月に契約しました。この時のアレサは24歳だったので、ジェリー・ウェクスラーは 10年待った訳です。

アトランティックでソウル路線に変更したアレサは、強みであるゴスペル歌唱を活かしてヒットを連発し、『ソウルの女王』としての 評価を得ます。中でも’72年のゴスペル・アルバム 『Amazing Grace』 は200万枚以上売れ、アレサ最大のヒット作となったどころか、 『最も売れたゴスペル・アルバム』として認定されています。40年以上経った現在でもまだ記録が破られていない点がすごいです!!

’70年代後半にディスコブームの時期に入り従来のソウル・ミュージックを歌っていた歌手は軒並みディスコ歌手に押され、以前よりセールスは低下しました。 ポップチャートで活躍したのはドナ・サマーやグロリア・ゲイナーで、特にドナの活躍ぶりは『ドナ・サマー一人勝ち』と言われたほどでした。
しかし、’80年代に入りディスコ音楽が下火になると、ほとんどのディスコ歌手はブーム終了と共に姿を見かけなくなってしまい、 『流行サウンドにハマりすぎて、流行と共に消えていく』アーティストの運命が感じられます。

アレサは飛行機嫌い

アレサは『飛行機嫌い = 移動はバス = 海外公演しない』 ことでも知られています。
これは’67年にオーティス・レディングが飛行機事故で死亡してしまったのがきっかけのようです。当時のアレサはサザン・ソウル界で オーティスと人気を二分する程に成功していた為、そのオーティスが死亡してしまった事が大きく影響したようです。
以降 飛行機には数えるほどしか乗っていないそうです。

アリスタに移籍、クロスオーバー路線で復活

アリサも’70年代後半にはヒットに恵まれない時期が続きましたが、’80年にクライヴ・デイヴィスがアリスタを立ち上げた時に請われて移籍し、 ポップ (ロック) とのクロスオーバー路線で人気を復活させました。(日本ではミクスチャーという言葉を良く使っていますが、海外では通用しない言葉です)
この好調ぶりは’80年代を通じて続き、’91年に『What You See Is What You Sweat』を発表した時は、日本盤のキャッチコピーに 「’90年代『も』アレサが仕切る!!」と書かれていた事からもわかります。’91年の時点でアレサは49歳ですが、50歳近くでも一線で 活躍できるあたり、アメリカのエンターテイメント界の層の厚さを感じます。

女性初のロック殿堂入り

’87年には女性で初のロックの殿堂入りを果たしました。デビュー後25年が条件で、アレサは’61年デビューなので資格を得たのは ’86年です。つまり資格獲得後にすぐ殿堂入りしたわけで、ロック~ポピュラー音楽へのアレサの貢献ぶりがわかります。
この『殿堂』はロック以外にもR&B, ゴスペルがあり、アレサはどちらの殿堂にも選ばれています。(2011年にゴスペル殿堂, 2012年にR&B殿堂)

2005年にはアメリカ合衆国 自由勲章にも選ばれ、これはアメリカで最も栄誉ある勲章で、ブッシュ大統領から受け取りました。 大統領は、「当時アメリカ人は、アレサの声とスタイルに感銘した。そして、アレサの母バーバラや 父C. L. は、若い頃 からアーティストとしてアレサをサポートし、そして、成功し、深いキャラクター、愛すべき心である女性としてアレサを導いた。」 とコメントしました。
その他前述の、2008年にRolling Stone誌で『史上最高のシンガー』に選ばれた他、2010年にはアポロシアターの殿堂入りもしました

「アレサはアメリカン・エクスペリエンスを定義づける助けとなった。彼女の声の中に、僕らは、僕らの歴史、パワー、痛み、暗闇、光、贖罪の探究、苦労して得たリスペクトを感じることができた。クイーン・オブ・ソウル、安らかに」バラク・オバマ

—合掌—

Sponsored Link

こちらの記事もどうぞ