”銀行” バブル期とバブル後
少し時代を遡って
1987年(昭和62年)に入った頃 私はまだ京都の信金に務めていました。
いわゆるバブル期と言われる時期で不動産業者向けの商品土地購入資金を中心にした大口融資が殆どで、それらの物件をさばく為、一般個人の住宅ローンもどんどん実施しなければならなかった時期でした。
しかし実際、住宅ローンの受付まで手が回らず、銀行窓口で諸手続きは委ねていました。
住宅ローンは今も昔も『制度融資』といわれ、杓子定規なスコアリングシートを記入し、一定の合格点をクリアし、必要書類を揃えれば融資OKとなるもので、さほど難しいものではないのです。
但し、売買価格が余りにも時価相場とかけ離れている場合など、業者と示し合わせて金融機関向けの契約書を作成したり、個人の自己資金が不足している時など売買価格にゲタを履かせたりする場合には営業のノウハウが必要になります。事実そういうことをする金融機関もあったように聞いております。(私はそんなことはしておりませんでした・・・・・!)
バブル期の前半は他行からの介入がほとんど無くほぼ京都全土の不動産業界が地元金融機関との取引に集中していました。
他行も一から取引を始める時間的余裕も無かったのでしょう。
その中でも当信金は最低限の金融機関としてのモラルは守っていたように思います。
例えば、不動産業者に土地関連融資をした場合は最終の購入者(エンドユーザー)は一般個人に限定するよう徹底されていましたし、業者が購入した宅地は必ずその業者の名義に変更登記することを徹底されていました。
所謂 業者間売買を禁止していたのですね。
ところがバブル後半に入って急に都市銀行が介入してきました。
そしてこれまでのモラルが崩れ去っていく大きな要因にもなったのでした。
融資を受け買った土地は名義変更する費用までも削り、他の業者に転売(手付転売)して利益を稼ぐ業者が増え、地価は益々上昇していきました。
都銀の中には風致地区等の建築規制地区までもどんどん融資しては商品土地化していきました。
不動産業者も元の1件の会社から同業種、建築部門、設計部門と40社も50社も系列会社を増やして同社内で一つの物件をグルグル回しさらに地価高騰の原因を作っていきました。
このような時代背景の中、当金庫が注目されたことが一つあります。
当金庫はこれまでから外国為替での為替差益の収益にも目を付けていました。
金融機関にとって外為収益部門は一番ボロい儲けです。
本店のすぐ横に日曜日も為替業務ができる店舗を作り、海外旅行者の外貨両替を行ったり、地元学生の海外留学援助等をして地域からも注目されました。
そしてこの時期京都では都銀や地銀も含めたなかで、飛び抜けて一位の外為収益を達成しました。
私達は介入する都銀に負けないよう土地関連融資にも知恵を絞って、減税を勧めたりといろいろ試行錯誤を繰り返していました。
農地転用し分譲住宅を建てる場合には、その中に自宅兼賃貸マンションを建てて等価交換のかたちで建築資金を融資したり、取引先司法書士の知恵を借りるのにも地元金融機関のメリットを思いっきり利用しました。
ついにバブル崩壊
1990年3月に大蔵省銀行局長土田正顕から通達された「土地関連融資の抑制について」(総量規制)に加えて、日本銀行による金融引き締めは急激なものであり、信用収縮が一気に進みました。
信用崩壊のさなかでも金融引き締めは続けられ、経済状況を極度に悪化させました。
私達の営業も一夜にして180度方向転換し、『融資』より『回収』に切り替えられました。
支店長より『今日から君等は2年間一切預金を集めなくて良い。回収一本に絞って活動してくれ!』でした。
総量規制について
総量規制とは、1990年(平成2年)3月27日に、当時の日本の大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導。
1991年(平成3年)12月に解除されるまで、約1年9ヶ月続きました。
大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」のうちの、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることをいう。行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させることを目的とする政策でしたが、予想をはるかに超えた急激な景気後退の打撃(いわゆるバブル崩壊)を日本経済にもたらし、さらにはその後の「失われた20年」を日本に招来する要因の一つとなったことから、結果的にこの政策は失敗に終わっただけでなく、積み残された不良債権処理は永遠に続く課題として残っていったわけです。
これまで親しかった業者に対しても表情を一変させての回収活動はまるで悪夢のようでした。
ある営業が話していました。
『俺が山科区で融資した不動産会社は100%倒産した。数件は残ると思ったんだけど』と。