
日本のフォークソングの夜明け
世界中でモダンフォークが誕生
60年代前半には米国でジョーン・バエズJoan Baez、ピーター・ポール・アンド・マリー(PPM)、ボブ・ディランといった人たちが、イギリスからはイワン・マッコールEwan MacCollやドノバンDonovanなどが、伝承曲やそのスタイルに準じた自作曲を都会的な感覚で歌って人気を集めていました。
私は当時はビートルズ・Status Quo に始まりカントリーよりもブルース、フォークよりもガンガンのロック派だったのでエレキと真空管アンプでジミヘンのフレーズのコピーに専念していました。(HIPの音楽散歩より)
でも巷に流れるサウンドはディランやPPMの歌声ばかりだったので自然と慣れ親しんでいました。
これらモダン・フォーク・ソングの直接の起源は、大恐慌時代に土地を奪われた農民たちのために歌ったウッディ・ガスリーの音楽や、アパラチア地方出身のカーター・ファミリーなどのカントリー音楽にまでさかのぼるそうです。
1948年にウィーバーズを結成したピート・シーガーは、50年代にレッド・パージ(左翼追放)のあおりを受けて芸能界を離れ、大学のキャンパスなどを回ってフォーク・ソングを伝え続ける。その聞き手の世代が50年代末からのフォークブームを担ったのです。
そして当時の時代背景でもあるベトナム反戦運動や公民権運動にかかわる歌もよく歌われました。
そのため、フォーク・ソングの流行は、恋愛の歌が大部分を占めたそれまでのポピュラー音楽に、社会性や物語性や現実感覚を加える役割を果たした。しかし、公民権運動の方向転換や、ボブ・ディランがロック歌手に転身してフォーク・ロックが流行した1960年代中期以降のフォーク界では、ポップなシンガー・ソングライターを目ざす者と、草の根的に伝統曲の継承を目ざす者との分離が進んだ。そして反戦歌などのプロテストソングも範疇に含まれたのでした。
風に吹かれて・・・ボブ・ディラン
2018.07.29 ディラン(76)Fuji Rock Fes 2018.に初出演
ベトナム戦争(1960‐75)に対する反戦運動はそれまでの反戦運動に比べ,質的にも量的にも,はるかに際だっていました。とくに戦争当事国アメリカの中で,自国の戦争政策に反対して行われた運動は,軍隊内部での抵抗をも含めて,第1次世界大戦末期の帝政ロシアと同様に前例のない規模だった。また侵略と戦うベトナム人民に対する各国人民の連帯・支援の行動も,義勇軍派遣こそなかったが,スペイン内乱への国際的支援の規模をはるかに上回っていました。
アメリカのベトナム介入は、共産主義を不道徳、邪悪なものとして、その脅威からアメリカ的民主主義やアメリカ的生活様式を守らなければならないと決意したときに始まったもの。
しかし、そうした行動は、アメリカの憲法、国連憲章、国際法、国際条約に違反し、アメリカの歴史的・伝統的精神にもとるのではないかという疑問が生じ、それはアメリカの兵力派遣が加速され、戦闘が激化するに伴って高まっていきました。
北爆が強化され、枯れ葉作戦やソンミ事件の実態が明るみに出るにつれてベトナム戦争に対する疑惑はベトナム戦争反対の動きとなって広がり、政府の政策に反対する集会やデモがしばしば実施された。
ベトナム戦争の内包する矛盾が反戦運動をかき立て、反戦運動がまた戦争への疑問をいよいよ強め、かくて市民の反戦デモンストレーションはアメリカ政府をして北爆停止―和平交渉開始―アメリカ軍の撤退―戦争終結を決意させるに至ったわけです。
日本のフォークソング
日本では都市部の学生たちが1960年代初頭にアメリカのフォーク・ソングのコピーから始まります。
62年には学生たちのサークルによる初のフォーク・コンサートが東京で行われ、64年ごろからレコード録音が始まった。
カレッジ・フォークとよばれたその動きからは、マイク真木や森山良子らの人気者が登場しました。
この広い野原いっぱい~初恋編 – 森山良子
「旅の宿」吉田拓郎
https://youtu.be/Zr3rI0KcfsA
「22才の別れ」伊勢正三と石川鷹彦
続いて、ボブ・ディランの反戦歌やトラディショナル・フォークの影響を受けた、フォーク・クルセイダーズ、高石友也、岡林信康、高田渡らも注目された。彼らの多くは京阪神で活動したことから関西フォークとよばれていました。
「悲しくてやりきれない」 ザ・フォーク・クルセダーズ
[帰ってきたヨッパライ」ザ・フォーク・クルセダーズ
「翼を下さい」赤い鳥
「風 」はしだのりひことシューベルツ
「戦争を知らない子供たち」 ジローズ
「遠い世界に」五つの赤い風船
https://youtu.be/mJJut1ooYSI
高石ともやと ザ・ナターシャ・セブン
高石ともやは1941年12月9日、北海道空知管内の雨竜郡雨竜町に生まれる。家業は鮮魚店。北海道滝川高等学校卒業後、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学。学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や釜ヶ崎で土木作業員、屋台のラーメン屋などをやりつつ、ピート・シーガーやボブ・ディランらの歌を訳しフォークソングを歌い始める。1966年7月の大阪YMCAキャンプで初めて人前で歌い、1966年9月19日の大阪労音フォーク・ソング愛好会のコンサートが初ステージ。
「思い出の赤いヤッケ」高石ともや ザ・ナターシャ・セブン
バイト先の赤倉スキー場で慶応の学生たちが歌っていた曲 ♫ 思い出の赤いヤッケ
「受験生ブルース」高石ともや
高校入試の受験勉強をしていた頃、毎日聴いていた『オールナイトニッポン』でいつも流れていた曲 懐かしいです!
https://youtu.be/JGCMXO1bqqQ
「死んだ男の残したものは」高石ともや
このへんはプロテストソング(反戦歌)です。
岡林信康
フォークの神様
1946年7月22日生、滋賀県近江八幡市出身
同志社大学神学部中退
実家は教会で、父親は牧師
実家の教会で不良少女の扱い(お祈りをさせないなど)に疑問を感じ「脱出」、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。
楽曲提供:
美空ひばり(「月の夜汽車」など)
五木ひろし(「北酒場」)
笑福亭鶴光(「鶴光の新説SOS」)
石川さゆり(「夢の海峡」)
西川峰子(「女になるでしょう」)
特に美空ひばりと親しく、彼女の作曲に歌詞を提供したり、カバーアルバムも作る
「山谷ブルース」岡林信康
https://youtu.be/I6GmSH2SP0o
「友よ」 高石友也 / 岡林信康
学生運動の決起集会などで必ずみんなで合唱する曲でした。
https://youtu.be/lIJXaY8xugw
「チューリップのアップリケ」岡林信康
放送禁止歌の代表といわれました。しかし実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在せず、抗議などを恐れての自主規制・自粛を各局で徹底しているそうなのです。
「手紙」岡林信康
これも放送禁止歌です。
「The Sound of Silence」Simon & Garfunkel
映画『卒業』のテーマ曲としてあまりに有名な曲です。
あらためて今聴いてみると、月並みですがフォークの歌手ってもうかなり高齢なのに唄が上手くギターが上手だなぁって思います。
わが青春の一ページを飾ってくれたフォークソングにお礼を言いたいです。